川端康成はライトノベルのパイオニアなのではないかと考えています。雪国は冒頭だけ有名ですが、私も例に漏れず冒頭しか知らず、たぶん微妙に中学入試のために部分的に読んだことがあるくらいだったと思います。そのくらいの川端歴だった中で雪国をちゃんと読んでみると、なんだこの妄想爆発小説は、と感じたのでした。これを読む前に猪瀬直樹のマガジン青春譜を読んでいたことも影響していますが、川端康成は女の人への妄想丸出しの小僧っていう印象が強かったので、なんとまあ内に秘めたエロが炸裂した小説なんだろうと感じてしまいました。表現が洗練されている?から名作ということになっていますが、内容だけ切り出したらひどいもんですよね。逆に言えば、小説はストーリーではないということになりますが。 今読んでいる山の音は、雪国に比べればストーリーもより考えさせられるものになっています。相変わらず内に秘めたエロというか、変態さは発揮されているのですが、避けられない老いの問題と、家制度による個人の煩悶と、雪国に比べて筆者が成熟したせいかかなり引き込まれます。雪国は純愛(笑)だからなあ。 山の音を読むと、人生の終わりを考えずにはいられなくなります。どうやって終わるんだろう。周りに迷惑かけないだろうかとか、気がかりなく死ねるだろうかとか。生きている間にそういうこと考えないと、死ぬ間際になってあたふたするんだろうなと思います。まだ死んだことはないですが、それはわかります。死ぬことは予習できないけど準備はできる。避けられないからこそ準備はした方がいい。死ぬまで死ぬことを忘れていても、突然目の前に現れるんだから。ぽっくり死ぬとか、事故で死ぬとか、それがあったらあったである意味奇跡みたいなものだ。 山の音では主人公の信吾(老人)に、様々な気がかりがあってもう老人なのにこれでもかというくらい悩みがつきず、迷ってばかり。読んでいて、これじゃあ死ねないなと思いました。小説の本筋とは外れるけど、じゃあどうすればよかったんだろう?ということを考えてみて、それに答えるにはどうすれば死ぬとき後悔しないか?と考えないとダメだと思いました。 よく人生の成功者と言われる人は、やった後悔よりやらない後悔とか言うけど、本当になんでも挑戦しておけばokかというのも真剣に考えた方がいいということ。挑戦して借金をかかえたり、職を失ったり