疑問を持つというのは誰でもできるようで、そうでもないということを最近感じている。疑問そのものは誰でも持つが、何にどういう疑問を持つかということが難しい。面白くもないことに面白くない疑問を持ってしまうのが一番いけないが、一番やってしまうことだ。そうすると最悪で、くそつまらない至極当たり前な結論が導きだされる。「ああ、聞かなければよかった」という。
BSの野球解説で、伊藤勤さんがオリックスの2年目捕手について「一年目はコーチや先輩にいわれたことを実践するだけでいいが、2年目3年目からはそれに疑問を持ち、自分の考えを出していかないといけない。そうでないと伸びない。」みたいなことを言っていた。スポーツの世界にはそのような暗黙の了解があるのかもしれない。まずやってみて、それから判断しろ。ただしそのためには常に考えていろ、みたいな。指導者側にもそうやって伸びたという意識があるから、新人が最初は右も左もわからなくても当然だと思っている。そこから少しずつ疑問を持つ力のある選手が育っていく。
何に対して疑問を持つのか。どういう風に疑問を持つのか。目のつけどころと問いのたて方。これは技術だから鍛えないと伸びない。でもどうすれば伸びるのか、誰も教えてくれない。ロジカルシンキングとかは本があるが、それは問いが立ってからの話。結局のところ、過去に立てられた面白い疑問を探して、その経緯を調べていくしかないのかもしれない。
自動車のスズキでは社長にそういう力があったらしい(うろ覚えだけど)。車体を軽くするために話し合っていて、「エンジンを取り外そう」と言ったとか。さすがに実現しなかったのは今のラインアップを見ればわかるが、エンジンはどのくらいの重さがあるのか、外しても自動車として成り立つのか、というようなことを発想できなければ出てこない。
作家で東京都副知事の猪瀬直樹さんは、『ジミーの誕生日』の中で「夜の焼夷弾はなぜ美しいか」という問いを立てている。そういう記述がいろいろな文献に見つかるからだが、そもそもの問いが面白い。しかも調べると、焼夷弾の構造にいきつく。油に浸された欠片が筒におさめられていて、投下されると筒が破裂し、着火した欠片が燃えながら落ちてくるという。だから火の雨がふっているように見えるとか。この疑問がなければ構造を調べることにはいきつかない。
翻って、