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9月, 2009の投稿を表示しています

研究会

最後の研究会がスタートしました。なんだかんだで4期目、木曜日から数えれば石崎研は6期目という長期間にわたって所属することになります。研究成果なんて出していないけど、ここから学んだことはたくさんあります。 一つはとりあえずやってみること。次に「何のための研究か」を考えること。最後に自分とは違うスタイル・目的意識の人を認めること。 一つ。大学に入った時点で明確な問題意識を持っている人は少ないし、あったとしても変わる可能性がある。そして知識が増えるにつれ移り変わる。だから大切なのは目の前の課題に集中して知識をたくわえ、とりあえず目の前の課題を考えること。何が問題なのか、なぜ問題なのかを考える。そうすれば知識もつき、別の世界が開ける可能性も高くなる。 二つ。技術はそれを利用する場所があって初めて役に立つ。高出力ジェットエンジンの研究はそれを求めるところがあるからできるのであり、単なる真理の追求では研究者としての欲は満たせても、社会にインパクトをもたらすことはできない。自然言語処理もしかりで、今の段階で考えられる利用場所が当たらなかったとしても、「どこで使うのか」「なぜ必要なのか」を自問自答すべき。そうでなければ同じ目的を達成する別の技術に取って代わられたり、政治的な工作で事実上の死を迎えたりする。アナログハイビジョン技術のように。 三つ。部活以上に様々な人が集まるということを、入ってみて肌で感じた。話し方、態度、考え方、研究会に入っている理由、目指す方向など、誰一人同じではない。部活なら少なくともチームの目標は全員共有であり(表面上だとしても)、そこを前提として付き合うことができたが、研究会の場合はそれもできない。しかもSFCの場合次の学期で退出できるので、余計にコミットするインセンティブが減る。こういう組織を体験することは自分にとって衝撃だった。いつもなら自分が投げ出してしまうところだろうが、こういう人たちと付き合い、良好な人間関係を築くというのも大変な技術なのだということに気づき、なんとかやっているところ。 研究成果以外でこれだけ得ることがあったのだから、僕の研究会ライフは非常に充実していたのだろう。石崎研でこんなことを考えているのは僕くらいなのだろうな。 入ってみたい研究会はあったけど、それはガチで参加することを求められる体育会みたいなもの。デザイン系とかね。さすがに

1億総ナベツネ化

現代日本のトップ陣は、大体が60~70歳の人々(有名企業や政治家など)。東京六大学準硬式野球連盟の理事たちも例外ではありません。こうした人々が今日本においてリーダーシップをとっているわけなんですが、有名企業はどうだか知りませんけど六大学の理事の場合、どうにもこうにもバカで手に負えません。 なんでこうもバカなんだろう。理屈は通じないし人の話は聞いてないし、一旦了承しても行動には移さないし。昨年からずっと思っていましたが、その理由が今日わかりました(人から言われたことですが)。今の70歳近いリーダー層の人々は、戦争で上の世代が死に、戦後は上の世代がいない中でやりたい放題できたからだというのです。 困難はあったでしょうけど、上からうるさく言われることがないし、誰かに従うという経験をしていないからこそ、今その場に身を置く人々の気持ちもわからないのでしょう。しかもそういう老人たち(これは老人たちに限らないけど)は組織論とかコーチングとかを体系だって学んだこともないし、日本経済が緩やかに衰退していく中で従来の価値感が通用しないという変化が起こっていることも知らない。50年前の感覚で21世紀に立ち向かわれても困るんですよね。 しかし高齢化社会が進むにつれ、こういう人たちはもっと増えてくるでしょう。誰でも歳を取って体や頭が不自由になればわがままで周りを省みない人になってくるのだから。 まあ従わねばならない僕らとすれば、リーダー層の全てが金田正一、渡邊恒雄だと思ってかかり、正攻法ではなくこちらに取り込む戦法でかからねばならないと心得ておくべきですね。戦っても勝てない相手なら戦わないで済むようにしないと。

恩返し

「自分に期待してくれた人たちに恩返ししたい」「応援してくれた人に応えたい」という感情が今ひとつわからない。自分があまり期待されていなかったからだろうか。純粋にこう思える人は幸せだと思うし、羨ましい。 期待されたらされたで、勝手に期待すんな!と思うのだろうな。それも自分勝手なんだけど。

もうすぐ授業が始まるけど、履修はしなくていいかな。プログラミングをとろうかと思ったけど、続けるモチベーションがないから止めておこう(あの閉め切られた空間と社交性のないSA・先生が苦手。単位のためでは力がでない)。自習でなんとかしようと思います。まあできる限り他の授業には出るつもりです。 過去を振り返って反省や後悔をしても何の意味もないと考える人もいるらしい。実際そうなのだろうな。どんな出来事でも後からいくらでも理屈をつけてよい経験に変えられる。だったらいちいち気を取られずに目の前だけに集中してた方がいい。自分には欠けている点だと思う。最近は振り返ってばっかりだし。 総括なんてしなくてもいいんですね。どのみち前進するしかないのだから。

態度

だんだんわかってきました。やはり自分は悩んでいるフリをしたかっただけなのでした。悲しんでいる気持ちに浸りたかっただけなのでした。人のことを考えているというポーズを取りたいだけなのでした。それらは全て回避することができます。自分の態度一つで。 どんなに深刻な悩みだったとしても、それに対処する方法はある。タフでなおかつ美しく、感情に惑わされることなく立ち向かうことはできる。自分は相手に苦しめられていたのではない。自分の反応に苦しめられていただけであり、それなら自分の意思一つで変われる。 全ての不安は外からやってくるのではなく、中からやってくる。同じシチュエーションでも自殺する人と屁とも思わない人が世の中には存在する。だったら自分は屁とも思わない方になりたい。そろそろ多感な青年をやるのは終わりにしなければ。どうせやるなら鉄人を演じる方がいいに決まっている。

大人の条件

部内失業中の自分にとって、部活中に黙っているのは非常に難しいことです(後輩に話しかける、ということね)。何か言いたくてたまらない。言いたい衝動に駆られてしまう。これは好意からくるのではなく、苦痛から解放されたいがための行動なのだと思います。俺を理解してくれ!というね。底の浅い親切心ですらない、押し付けの感情を見せるわけにはいきません。 自分の尊敬する先輩は、社会の一員として働くことを「喜び」と表現しました。程度の差はあれ、そうなのかもしれません。少なくとも、全体の一部として機能したくともできない状態に比べればよほど。仕事が忙しい時期は自分にもありましたが、忙しくしたくてもできない、力を出したくても場がない悲劇に比べれば、忙しいなど屁でもないことです。活力がみなぎっているからね。今は生ける屍です。 大人になるって、一面ではこういうのを受け入れることなのかもしれません。許せること、受け入れられることが増えていくということ。他人に依存せず、過度な期待をしないこと。変えられることと変えられないことを知り、やりたいこととやるべきことを区別できること。そしてやりたいことを見失わず、やるべきことを必ず遂行すること。まあこれができてれば完璧な大人でしょうね。 他人に理解を求める今の自分は承認強盗です。これが部活の人じゃなかったら理解してもらおうなんて微塵も思わないのにね。部活の中には理解者が欲しいなんて、一体何が心残りなんだろうか。

雑記

ふとテレビを観ていたらもう9月も半ばを過ぎていたことに気づいた。部活の終わりが迫っているのはもちろん、大学生活そのものも終わりに近づいているということ。秋学期は遊び放題と言っている人もいるけど、自分はそんなことにはならないだろう。学費は払ってもらっているのだし、秋に受けたい授業もいくつかある。履修申告はしなくても、出席はしてみるだろうな。 遊ぶのは今しかできないというけど、自分としてはむしろ勉強するのは今しかできないのではないかと思う。社会人になったら自分の専門分野を深めていくことが第一になるから、それ以外の分野を学ぶ機会は今後なくなる。だったら残り少ない時間をそれに当てたほうがいいだろうと思う。完全に高橋俊介先生と夏野剛さんの受け売りだけど、感銘を受けたのだからしかたがない。 振り返れば、もっと受けてみたい授業や研究会はあったけど、学びたいという意欲を掻き立てられて今も持っているということだけで良しとしよう。どうなるかわからないけど、絶対にどこかで大学院に行きたい。どこにいけるかはわからないし、どの分野になるかもわからないけど(MBAの時代ではなくなっているし)、行きたいという気持ちだけはなくさないようにしよう。 引退したら誰かと関わる時間も極端に減ってしまう。アウトプットを出せる機会のあるうちに、色々と試していかないと。

ルルーシュになりたい

うちのエースとリリーフエースがすすめていた「コードギアス 反逆のルルーシュ」を今更ながら見始めました。9話まで攻殻機動隊と合わせて見たけど、なかなか侮れない。ていうかここまでなら東のエデンよりもりあがってるかも。 まだ見終わってないからなんともいえないけど、ルルーシュみたいな鋼の男になりたいとは今から思います。広い心より鉄の心。寛大さより折れない強さ。どちらかを取るというものではないけど、今は精神的な強さと一貫性が欲しい。。 堂上教官は「どんなときにも感情に流されない冷静さを持て」と笠原に忠告した。今は感情に流されているわけではないけど、自信を持てていない状態。目先の結果が欲しくて焦っているような感じ。いつか自分の正しさがわかるときが来ると信じていても、今すぐ自分の正しさをわかってほしいと思っているんだろうね。でもそれはエゴ以外の何者でもなく… ルルーシュみたいにデンと構えていたほうが、大物っぽく見えるだろうからそうしていよう。と思ってもなかなかできないんだな。まだ成功体験が足りないもので。

雑記

人から聞いた話を本人に確かめるのってけっこう難しいということが今日わかりました。「○○から~って聞いたけど本当?」みたいにダイレクトで聞いていいのか、それとなく聞いたほうがいいのか。自分の場合、ダイレクトに聞かれてもわざと間違って聞かれれば訂正するから、それがいいのかもしれないと思いました。今日の場合なんかは自分が聞いた相手と確かめた相手で食い違いがあったから、その二人の間に不信感が生まれてしまうかもしれないと思ってちと反省…軽率だったのか。 それにしても、皆色々感じるところはあるのだな。それらは全て正しいのだけど、全てが実現することはない。誰が我慢すべきなのか。誰が得をするのか。全てが野球の実力で決まっているように思えるけど、それが嫌なら逆らえばよい。発言なら誰でもできるわけだし、うまい奴がいつも正しいことを言うわけじゃない。 ただなんというか、一番わかっていなければならないのは、ここで野球をするのは手段の一つだというのを自覚することではないかと。大学で何をするにせよ、それは全て自分という人間を大きくするためであって、そのために何をしようと別に構わない。体育会に入っても、選手をやろうがマネージャーになろうがそのためにやっていることはかわらない。技術の向上を目指している人もいるのかもしれないけど、プロになれるわけでもないのだから、それを目指しているのはムダな努力ではなかろうか(プロにいける実力かどうかくらいどんなに遅くとも高校でわかるだろう)。 頭がボーっとしているので何を言いたいのかわからなくなってきたけど、今が楽しければいいという奴もアホだし、純粋に野球をしたいという奴も残念ながらアホじゃないかと思う次第であります。それに比べれば、頑張っている人を応援したい、感動を一緒に味わいたいというマネージャーの方がまだ次につながる生き方のような気がしているのです。

癒し

女子マネージャーの存在意義って、結局は癒しなのではないだろうかと感じてきました。言われて気づいたことではありますが。 男だらけの組織において、まったく違う人種がいるだけでなんとなくなごむ。いないと息が詰まる。もちろん仕事をしてもらっているのだけど、極端な話、まったく仕事ができなくても大丈夫。そんなものなのではないかと思ってきました。 女子マネージャーにしかできない仕事… それこそ癒ししか思いつかない。

読書日記

『ハイ・コンセプト』を読了。タイトルから想像していたのとだいぶ中身が違ったというのが一番の感想。もっと具体的な事例ばかりを取り上げているのかと思いきや、産業構造の変化をまず取り上げ、そこで必要となる個人の素質を丁寧に解説し、補足として具体例を入れていくというつくりだった。もっと早く読めばよかった。内容としてはアルビン・トフラーの『富の未来』とか、奥出直人の『デザイン思考の道具箱』とかで読んだことの総合みたいな感じ。しかし、改めてこれからの時代には何が必要かということを確認することができた。数学や経営学ではなくデザインとか認知とか、人を知り、総合的に考える力が必要なんだなと。というかいわゆる理系人間(専門バカ系)とかMBA野郎とかはもう世の中に溢れているので(しかもそれで世の中は行けるところまで行ったので)、そうではない人間が必要だということだろう。 「その道のプロ」というのがこれからは変わっていくのだろうな。ただただ現場で長く働いて慣行に慣れきった人ではなく、この事業はどうあるべきか、世の中的にどうなって欲しいかということを色々な側面から考えられる人でないと生き残れないのだろう。ただ真面目に全力で働く人はインドや中国にたくさんいる(しかも低賃金で)。彼らより高給をとる人間として、より生産的で創造的な力が必要となるのは当然だということ。すごく安っぽい表現だけど、先進国で働くということは、皆が皆イノベーターであり、アントレプレナーである必要があるのだろう(もちろん職場によって違うけど)。 部活では安易にイノベーターになるのは危険だけど。敵ばかりつくって何もできない。敵はいない方がいい。

共感する力

ダニエル・ピンクの『ハイ・コンセプト』を読み始めている。共感こそこれからの時代に必要な能力だということが書いてあって、自分に思い当たることがあって変な感じがした。自分には果たして共感する能力が備わっているのだろうか。本の中では一例として、「あくび」とか「眠い」とかいう単語が頻出する物語が登場し、読んでいる中であくびが誘発された人は共感能力が高いと説明されていた。僕は全くあくびが出なかった。やはり共感能力が低いらしい… ちょっと前に後輩の話をよく聞く時期があったが、そのときも自分が相手に共感しているという風には感じていなかった。相手の立場に自分を置いてみるシミュレーションはした。しかし、そこで考えるのは自分であって、相手の感情を推測するというシミュレーションをしていたわけではない。あくまで「自分ならどう感じるか」であり、「この人ならどう感じるか」ということを考えたわけではない。だからどうしても相手に何か言いたくなってしまう。本当なら相手をまず全面的に理解することに力を注がなくてはならないのだろうけど。 それがわかっているから自分の中に葛藤があったのかもしれない。自分には共感能力が少ないが、相手を思うならまず共感・理解からはじめなくてはならない。しかしただ理解するだけでは結局問題の解決にはならなくて、解決のためには相手の考え方を変える手助けをしたり、環境を変えられるよう行動しなければならない。何か言いたくなる気持ちを抑えつつ、しかし聞くだけに終わるわけにはいかないというジレンマ。相手を否定したくないが、しかし改善すべきところも見受けられる場合にどうすればいいのかという思い。自分ならどうしてほしいかと考えても、それが相手にとってベストかはわからない。こんなことを思っているところに知らなくてもいいことを知り、頭がはげてしまったという… 真剣にはやったが、これでいいのだろうか?今日もまた言い訳がましい弁明を繰り出してしまった。こんなこと自分なら聞きたくない。それでも言ってしまうのは自己保身だろう。しばらく頭は治りそうにない。