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6月, 2009の投稿を表示しています

タイトルなし

前回のエントリーは消してしまいました。 苦しんでいるフリをしているだけなので。 まあ間違いを犯したのは事実ですが…やってしまったことは仕方がないです。今後を考えましょう。 まだまだ自分は弱いなと思わされました。自分だけでは抱えることができない。 それだけならまだしも、相手のプライドまで考えることができない。 自分が楽になることを反射的に選んでしまう。 愚痴をこぼす。 等々。 というか、今自分のやろうとしていることがそもそもおこがましいのかもしれない。 相手のためとか言って、結局自分の思い出づくりなのではないか? ユニフォームを着たがるOBと何が違う? そもそも相手にのめりこみすぎではないか? だいたい同学年にはできないことを後輩にはできるなど… 腰抜けなのか?? 「人のため」って難しい。 「ため」なんておこがましいか。 どういうメンタルで望めばいいのか、だんだんわからなくなってきた。

悩み

人の悩みを聞いていると、自分に置き換えて考えるようになる。自分はどういう時に辛いか、どういう時に楽しいか。過去を振り返って、いつが苦しかったか。今、何が楽しくて何が楽しくないか。 今一番楽しくないのが、残念ながら研究会の活動になってしまっている。自然言語処理という学問分野はたしかに面白いし、世の中で応用を利かせることもできると思う。その意義は十分わかるのだが、自分の興味分野とギャップがあるように思う。こういう技術系の発想って、あまりにも世の中のニーズに鈍感な気がするんだよな… 自然言語処理が有効な分野というのは、例えば検索エンジンだろう。またブログ分析において、筆者が何を意図して書いているのかを構文解析なんかを用いてある程度把握することができる。前者の場合、「美味しいビールが飲める店」というキーワードからそのような店を検索表示するシステムがつくれれば、より精度の高い検索エンジンがつくれるとは思う。しかしこれからは、そもそも情報を能動的に集める習慣のない人にいかにアプローチできるかではないのだろうか。今検索エンジンを使っている人は、検索エンジンの性能がどうあれ、策を講じて何とか知りたい情報にそこそこたどり着いているのではないか、と思う。 後者の場合はそもそも自然言語処理で何とかなる問題とも思えない。。意味づけ論とか語用論とか、ソシオセマンティクスだとか様々な学問分野があるが、そもそも人は言葉を額面どおりに使うわけではない。意味は情況によって規定されるので(だから皮肉や隠喩などが成り立つ)、自然言語処理にそれが理解できなければ、現在自然言語処理が掲げている目標を達成することはできない。 こんな感じで、完全に壁にぶち当たってしまった。誰か僕の悩みを救ってください…

ゆとりの時間が終わりました

今日でゆとりの時間「環境デザイン論」が終了。全8回というシリーズだったが、途中旅行週間をはさんだのと、開始前の準備期間を含めると、結局3ヶ月くらいかかったのだろうか。この企画がリーダーから出たときはまだ3月だから就職活動中で、内定も出ていなかったけど、絶対にやりたいと思った。今思うと、あの時の自分にこう言ってやりたい。「ほんとナイス」と。やっぱり自分がほんとにやりたいことって理屈じゃないんだね。直感的にわかる。もちろんその直観が働くために、今までの野球部での経験があったのだと思う。嫌なことでもやるという。 環境デザイン論を通じて学んだ大切なことは大きく分けて4つ。 ①最初に「何が目的なのか」「何を提供するのか」というグランドデザインを描く。 ②その後「毎回の授業では何を与えるか」「具体的に何をするのか」という各論に落とし込む。 ③毎回必ずレビューし、反省と改善を繰り返して次につなげる。 ④ファシリテーターとして、生徒たちを良い方向に誘導する。しかし話しすぎず、黙りすぎず。 どれも当然といえば当然だけど、それがきちんとできたのが今回の素晴らしい点だと思う。当たり前のことがなかなかできないから難しいのだ。 グランドデザインをきっちり描くことは、実は非常に難しい。抽象的な話になるので、さっさと具体的な話に行きがちだが、ここをしっかりつめないと、具体案を考える際に「拠り所」となるものがないので、具体案がブレまくりになってしまうのだ。今回はまず目標として「後輩に一番勧めたくなる授業にする」というのがあり、それを実現するために「デザインメソッドを学び、世の中をデザインの視点から見て問題発見・解決を行う」(リーダーの言葉ではないけど…)授業にした。「問題発見・解決を体験してほしい→そのためには世の中のものごとに潜む"理由"を知って欲しい→そのためにはデザインメソッドが必要だ」という感じで、ロジックツリーがしっかりしていたからこそ、その後につくる各論がブレなかったのだと思う。ここはグランドデザインを描いたリーダーの力が本当に素晴らしかった。感謝。。 各論に関してもリーダーがおおもとをきっちりつくってくれたので、僕らは意見を出し合うくらいしかできなかったのだけど、やはりどのメンバーも目的をきっちり理解して、良い意見をどんどん出してくれる。遠慮しないかわりに発言に責

大企業病

一昨日の広告代理部門の終日会議は、 外部環境よりも社内の問題、 おもに スケール デ メリット に焦点を絞って話し合いました。 創業来拡大し続けてきた当社の広告代理事業本部は、 現在社員数 500名強 、売上は全体の半分の 約400億円 です。 規模の拡大とともに発生する問題を早期に発見し 対処してきたつもりですが、現在はブレイクスルーすべき 壁にぶつかっていると思います。 いま私が気になっているのは、規模の大きさが故の他力本願です。 多人数の組織に属していると「自分がやらなくても誰かが・・」 みたいな安心感から、緊張感を失いがちです。 それは当社にももちろんあると思います。 しかし、それ以上に危惧しているのは、 専門部署や専門家が増えたことで、個人の成長機会が 失われているのではないかということです 。 ミーティングやアポイントに大人数で、 「メディアAの専門です」 「メディアBの専門です」 「モバイルの専門家です」 「SEMの専門です」 「クリエイティブの専門です」 「マーケティングの専門です」 「技術の専門です」 「上司です」 「その上司です」 「そのまた上司です」 と、うじゃうじゃ参加していると、一見頼もしい気がしますが、 たとえば営業だとすると、技術とクリエイティブはともかく (本人ができれば尚良いですが) モバイルやメディアやマーケティングなんかは自分が全部やれ。 と言いたくなります。 なんとなく専門部署の人を連れてくることで仕事が終わって しまうと 、本人が勉強する機会を失ってしまい 、 セッティング職。みたいになってしまいます。 人間はその気になれば何にでもなれるのに、 素養としては能力の高い人材を採用しているのに、 自分の能力を狭い範囲で決めつけてしまうべきではないです。 もちろん、大人数で取り組むべき規模の仕事もありますが、 それがコストに見合っているのかも、個別に判断すべきです。 伝言ゲームによる時間のロス、仕事のミスも考えられます。 多人数が関わることによるスピードの遅れは深刻です。 そうなるともう所謂大企業病です。 そんな状況に陥ったとき、自分が会社にひとりしかいない場合、 どこまで自分でできるか、 ひとり株式会社をイメージ すると 大組織の中で失われている自分の可能性は何か、 を紐解くことがでできると思います。 同じ商売をひとり株式会社で

男女同じ部にいるということ

人の話を聞くというのは本当に難しい…。自分ではしっかり聞いているようでも、本当に相手が言いたいことを聞き出せているのかどうかはまだまだ疑わしい。自分を振り返ってみても、そう簡単には本音を言いたくないという気持ちがあるので、今の自分はまだまだ相手の信頼に足る人間ではないのかもしれない。もちろん、ここで止めたら何もならないから続けるのは当たり前だが、問題なのは当人に話を聞いてアドバイスするだけでは、根本的な問題解決にならないということだ。 たしかに当人に対しては、世の中に対する見方だとか考え方をシフトチェンジさせるようにアドバイスすることで、余計なストレスを感じたり、悲観したりする機会を減らすことができるだろう。しかし今の僕の立場だとそれだけではいけない。4年生として、部の問題解決に取り組まなければ、結局悩んでいる当人に泣き寝入りしろと言っているのと変わらない。 今回の問題は、一つの部に男女がいるということが引き起こしている。男性が選手、女性がスタッフというかかわり方は、正直言って非常にやりにくい。特に女性側にとって。どうしたって妬み、やっかみの心理が出てくるし、同じ苦労をした仲間という意識・連帯感を持ちにくい立場だからだ。それは今回話を聞いて見なければ、認識することがなかった。 思い返してみると、僕はかつて女子マネの仕事をもっと良いものにしようとして、挫折した記憶がある。これは結構ショックだったのだが、今考えると彼女らは部活にたいして選手ほど熱意があったわけではなく、選手と同じ水準の熱意を持って改善を行おうという気はなかったのだ(もちろん仕事はきちんとしてくれたのだが、それは関係ない)。 問題なのは、今までの女子マネは部活が優先順位の一番ではなかったということだ。しかし、今は一番の人が出てきている。だから問題が起こっている。 個人的な意見を言えば、今の上級生マネは保身的になりすぎた。マネージャーの数が多いから制限するなんていうのは、とんだ思い上がりだ。なぜあなたにそんな権利があるのか。数が多いのなら、貢献度の低い人間からカットされるべきではないか。それをしないで入り口だけ閉めるのは、自分達の既得権益を守りたいという官僚的思考以外の何者でもない。 選手達は皆競争している。マネージャーも競争関係にあるべきだ。自分の仕事が奪われるから能力のある人間を排除しようとするのは、独

115,500

マイ本棚にあるうち、大学に入ってからの3年ちょっとで買って読んだ本の総数は77冊だった。ただし小説、雑誌(広告批評とか)なんかは除外。当然だけど漫画は除外。もう捨ててしまったものもあるし、メディアで借りたり兄とか父が買ったものを読んだのもあるから、これよりは多いのだろうけど、意外と少なくて驚き。 77冊の値段はばらばら。一番高くて6000円くらい。安いのは新書で700円くらい。平均で1500円くらいだとして、77冊×1500円=115,500円のお金をかけたことになる。これが多いのかどうかは微妙。。比べられないけど、勝間さんは一ヶ月に50冊以上は購入して読むというから(全て読破はしないらしいけど)、2ヶ月で僕の3年ちょっとは追い越されることになる。ヤバ… 知識の陳腐化が進むスピードが速い今、「だから新しい知識を仕入れても無駄。古典から学べ。」となるか、「だからこのスピードに取り残されないよう、自分もスピード上げて知識を取り込まなければならない。」となるかは人次第だと思うけど、僕は後者でありたい。古典から学ぶのは有意義だが、古典の解釈だって一定ではない。解釈は時代に影響されるものだから、古典から新たな意味を見出すためには時代のトレンドを掴み、未来を予見できるような知識が絶対に必要だ。 残り少ない学生生活では、もっとメディアセンターを利用したいと思う。メディアで多種多様なジャンルから学ぼうと思う。どういう知識が必要になるかはわからないのだから、今から横断的に知識を吸収しておくのは決してマイナスにはならない。自分の幅を広げるためにも、積極的に取り組みたい。 しかし77冊か。。どうりで最近アイディアや思考法が固まってきたと思った。

祝勝会に行ってきた

本日はリーグ優勝の祝勝会@虎ノ門パストラル。100近いOBと、様々な来賓の方にご来場頂き、盛況だった。 僕自身がこの会のために何かうごいていたわけではないので、今回は完全に客として参加。こういう立場は久しぶりだったのだが、やはり準備している人たちに目がいってしまう。自分ならああする、こうするとか。こういう視点は自分の中で武器になると思うので今後も持ち続けたい。現象に対して疑問を持たなくなったら終わりだと思う。 来賓の挨拶は…正直長い話ばかりだったのだが、池井優名誉教授だけは群を抜いて素晴らしいスピーチを行った。優勝というニュースは世界を駆け巡ったので、世界中のリーダーたちからメッセージを頂いた。それを紹介しよう、云々。各国首脳の言葉として自分の言葉を述べてしまうという芸当も素晴らしいし、短くまとめた構成力や、周囲の反応を読む洞察力、声の大きさ、抑揚、どれをとっても素晴らしいスピーチだった。父が池井先生の野球チームにいたときに40歳を越えていたというからもう70歳はとうに越えているはずだが、あれだけのスピーチができるのはすごい。やはり話の上手い人というのは、何よりも相手のことを考えられるのだと思う。どうすれば受けるかをよく考えている。そういう技術は日本人に欠けている。 池井先生のスピーチの後は(色々あったがおいといて)歓談。日吉倶楽部から福島さんが来ておられた。父の同級生/野球部同期ということで色々お話させて頂いたが、やはりすさまじいエネルギーを持っている。ほとばしるような感じ。あれだけのものをもっていないと、電通で偉くはなれないのだろうな。自分もああなりたいと思わせる人が増えたので、とても良い会だった。 他にも平成OBの方々と交流を深めたので、今後何かの機会でお会いするときには顔を覚えてもらっているかもしれない。もっともっと色々な人と話せばよかったが、まあ短い時間にしてはよくやったと思う。次は今日の2倍を目指そう。 僕は第一印象がよくないらしいので、それを克服するためにもよいトレーニングだった。今日のところはなかなか受けがよかったので、効果は出ていたといえるだろう。 継続、継続。

瀬谷ルミ子さんの講演会に行ってきた

瀬谷ルミ子さんの講演会に行くため、登戸・府中本町経由で国分寺まで遠征してきた。東京に国分寺市という市があることを改めて実感。なんだかこういう地方都市は全部仙台みたいに見える症候群になりかけている。 東京経済大学の写真は撮らなかったけど、住宅街にあるということで、一見駒場の東大みたいな感じ。しかしいる学生がなんだか幼いというか、勉学を生業とする人間には見えない。それはC301教室に着き、講演が始まるにあたってゼミの学生が挨拶する際にも感じた。なんであんなに噛んじゃうんだと。あんなに簡単な台詞なのに。そもそも伝達動機が低いのかもしれないし、そういう経験を全くつんでいないのかもしれない。経験はつんでいるのだが、根本的に学習能力がないのかもしれない。偏差値はそういう能力を測る指数ではないのだが、小熊英二先生も言うとおり、結局明治以降の日本では偏差値の高い学校に通っている学生は勉強以外に教養も高いということか(ただSFC(中高大すべて)を見ていると、そうでもないという例はあるのだが…) 肝心の講演会はというと、やはり生で瀬谷さんを見るということで、内に秘めたエネルギーというものを感じられた。あと、印象に残る言葉がいくつか(内容自体はプロフェッショナルで見たことと重複しているので割愛)。瀬谷さんは生で見ても、決してオーラがあるという感じではない。普通の女性という感じなのだが、そんな方がDDRというとんでもないことをやっておられる。そんなギャップを感じさせるくらいの人なのだが、話の端々に、「さもありなん」と思わせることがいくつも。「正義と平和は同時に手に入らないこともある」「市民団体は政府を敵と見なして対立することが多いが、政府の言い分を聞き、彼らが何を求めているか知ることで、連携して大きなことを為すことができる」「日本は連携が苦手」などなど。 「正義」を通すと「平和」が逃げていく。「平和」のために「正義」を封じなければならないこともある。ミロシェビッチ時代の旧ユーゴ空爆の時なんかは、まさにこういう状態だろう。セルビア人、アルバニア人、クロアチア人それぞれの正義を通せば、平和が訪れることはない。「正義」が「平和」に結びつかないというもどかしさ。こういうことを仕事にするというのは、どれだけストレスのかかることだろうか。 しかしそれも瀬谷さんが言うとおり「一番不条理を感じているのは現

理不尽、不条理と達成動機

今日は授業も部活もない珍しい一日なので、これから東京経済大学へ瀬谷ルミ子さんの講演を聞きに行こうと思う。昨日の深夜にユーゴスラビア崩壊のドキュメンタリーを見て、不条理や理不尽に対する思いが再びメラメラと燃え上がってきたので、不条理と戦うのが仕事である人の話を聞くことは大きな意義があると思う。 「プロフェッショナル 仕事の流儀」に出演したとき、茂木健一郎に「武装解除という仕事をしていて、不条理を感じることはありませんか?」という質問をされ、「ありますが、一番感じているのは現地の人々ですからね。」と答えていたのが、とても印象に残っている。人並みの正義感がある人なら、どう考えても良い方法とは思えないのにいつまでも争いが終わらず、女こどもが虐殺されるという泥沼の状況に対し、怒りを覚えるだろう。しかし、外部から来ている立場の人間がその状況に怒りを覚えるというのはお門違いなのであって、あくまで外部の人間という客観性を持ち、冷静な立場でことにあたらねばならないということだろう(こんなに簡単なことではないだろうが…)。 ブログを見れば彼女も昔から超人並みの精神力を持っていたわけではないらしいということがわかるが、現在はまさに超人のような精神力と行動力をもって武装解除に当たっている。自分たちが武装解除に当たったにも関わらず、数ヶ月後に民衆が再び武装勢力に合流したり、政権が変わったりすることは、一体どんな気持ちがするのだろう。プロフェッショナルでは「何のためにこの仕事をやっているのか」と感じたと言っていたが…。今の自分にその感情は理解できるだろうか。 瀬谷さんがプロフェッショナルで言っていた中に「ここならギリギリ自分達は争わなくて済む、というラインを探す」というのが武装解除の目標であるというのがあった。武装解除というのは住民達の心を「争いはいけない。平和が大事。」という風に作り変えることではなく、超現実的な妥協案を提示することだというのだ。Win-Winの関係であり、「戦争ではない状態」を作り出すことである、と言えるだろうか。しかし、心の中にある「紛争をなくしたい」という思いと、目指す方向性とのギャップは大きい。瀬谷さんはどういう気持ちでいるのだろう、どういう風に整理しているのだろうと思う。 僕なんかもレベルは違えど、体育会という理不尽と不条理の中で主務として活動したので、なんとなくわ

高橋先生の講義

毎週水曜日の5限に履修している高橋俊介教授の「ヒューマンキャピタル論」。1,2年生が多いので教室はざわついているのだが、高学年としては本当に素晴らしい授業だと思う。毎回必ず驚きや発見があるし、90分間集中して話を聞いていられる。高橋先生は人事制度やキャリア論では超有名人なのだが、あの人を見て初めて「ただ喋っているだけでも人をひきつけることはできるのだ」ということを学んだ。偉大である。今回は「今の若者に試練が与えられなくなっている」ということと、「OJTで教えられることが減っている」という2点が印象に残った。 1つ目について。「試練」というと古臭く感じられるが、「自分の能力を少し超えたタスクを与えられ、そこでもがくことで能力がストレッチされる機会」だと思えば当たっているだろう。現在の企業では、そのような試練がなくなっているという。なぜなら、昔は人も少なく、上司も若くて経験もなく、新しいことを若い人がやらなければならない状況だったが、今ではそのような人が上層部にひしめき、企業も大きくなり、世界はグローバル化しているので、失敗できない状況になっている。そのため、経験のない若手に大きなことをまかせられないというのだ。これは父に聞いていたことと重なる。総合商社で若手に与える仕事なんてのは、上司が「できそうだ」と思う仕事を選別しているというのだ(トゥミトゥモショージの話。まあ三井三菱なんてもっとだろうけど…)。たしかに経験がものを言う石油・鉄鋼・化学品なんかで、1,2年目の若手に交渉の全権を任せられるわけないよな… 2つ目について。日本は昔からOJTで人を育てるということに長けていたらしい。それは職人の世界での徒弟制度(背中を見て育て!とか、教わるのではなく盗め!みたいな)だったり、モーレツ時代の会社における上司とのコミュニケーション(電話で話している部下の様子がおかしかったら声をかけてやったり、その後飲みに連れて行ったりなど)など、軍隊でいうと下士官レベルまでは非常に効率的に育つ仕組みがあったらしい(でも幹部レベルの育成法は全くなかったらしいのだけど、それは別の話)。ところが現在のように技術が高度・複雑になるとどうなるか。上司が教えられることがなくなるというのである。今回はジャンボジェットのジェットエンジンを例にとって話していた。昔はジェットエンジンがよく故障したので技術者

仙台

色々あってこの週末は仙台に行ってきました。岩手(盛岡・花巻)は行ったことあったけど宮城は初めて。駅前がビルだらけでびっくり。パッと見は藤沢より栄えていました。ちょっと歩くと地方都市らしい街並が出てきて安心しましたが… 地方都市だと駅前が発展しているとは限らないですけど、新幹線が古くから停まっている駅の場合は別かも。仙台も新たにパルコができたみたいだし、西口のアーケードどおりにはブランドの旗艦店がいくつも見られたので、それなりに栄えているのかな。ただパチンコとゲーセン、満喫の多さにはびっくり。しかも土曜なのに人が少ない。こういう地方都市は本当に地元の人しか利用しないから、渋谷とか新宿とかにはなりようがないんだと感じました。観光客は観光名所にいくから、わざわざ仙台パルコとか仙台のブルックス・ブラザーズとかには行かないよね(僕は行ったけど)。グッチの旗艦店も工事中だったけど、どうなるんだろう。 クリネックススタジアムにも行きました。本当に楽天のユニフォームを着ている人が多くて驚き。東京では巨人もヤクルトも見ないというのに…。で、ショップに入って思ったのが、衣料品系のグッズがとても品揃え豊富ということ。同じレプリカユニでも素材が色々で、一番安いメッシュユニは3800円。ネームが入ったり、シャドーストライプになったりすると上がるけど、とにかくユニフォームを買うハードルが低い。 あと多彩なカラーバリエーション。選手は着ないけど、ブラックとかピンクとか色々なユニが売られている。あとキャップも。それにテンガロンハットなど、オリジナルの衣装もある。こういうのを着ている子どもが多い。子どもに着せたくなるし、子どもも着たくなるんだろう。女の子がユニとかテンガロンハットを着ているのが多いのが驚き。巨人の帽子は被らないもんな~。 なんというか、球団の衣装をディズニーランドで売られているミッキーの耳みたいな感じで売り出しているのが効果を上げているように思った。せっかくだからつけて応援しよう!みたいに思わせる。ただのユニフォームはちょっと…そこまでコアなファンじゃないし…と思う人でも、色がかわいかったり、面白い帽子だったりすれば買ってみようかな、となる。こういう路線に行ってみたのはとても面白いと思いましたね。 こうなると楽天が目指すべきなのはヤンキースじゃなくてディズニーランドだと思うので、ぜひ

一言から派生したあれこれ

今日後輩(といっても僕はあまり後輩という認識はしていないが)と話していて、「この部は野球をするところではない。優勝を目指すところである」というのがポンと口をついて出てきて、ハッとした。自分の中でこの思いはずっとあったけど、このように洗練されたセンテンスで出てきたのは初めてだったから。野球選手としてレギュラー争いに明け暮れることを目的・ゴールとするのではなく、優勝という大目標があって、自分はどのような形で貢献していくかを探っていく。これが準硬式野球部なのではないかということを、自分でも意識しないうちに口が勝手に出していたのだ。 このセンテンスは自分で言うのもなんだけど、よくできていると思う。もちろんソッカー部や水泳部など、あらゆる体育会にあてはまるだろう。競技はあくまで優勝のための手段にすぎない。選手は役割の一つに過ぎない。トレーナーもマネージャーも控え選手も、等しく優勝のために力を発揮する同士であるということがよくわかる。 ただこれを実際に行うためには、レギュラー側/それ以外 双方に意識改革が必要になる。レギュラー側は、自らは競争を勝ち抜いたエリートであるという意識を捨て、単にレギュラーという役割を与えられたに過ぎないということを自覚しなければならない(それは競争の結果勝ち取ったものだとしても)。レギュラーは応援やデータ収集より上ということはない。こうした意識があるうちは、非レギュラーの人間から尊敬や信頼を得ることはできず、足の引っ張り合いが発生する。それ以外は、無気力さを排除し、自分ができることを徹底的に行わなくてはならない。レギュラーになれなかったのは結果として受け入れ、次に何ができるか考えるべきだ。レギュラーになれないのは恥ではないし、いつまでもそれが傷になるのなら辞めてサークルを立ち上げればよい。 ここまではわかりやすい。これだけなら割と簡単にまとまり、良いチームの道筋も見えやすい。 一番難しいのは女子マネージャーなどのスタッフ(女子スタッフ)だろう。そもそも男子は選手を目指して入ってくるから、男女で部に対するモチベーション・目指す方向性が違う。僕も女子マネージャーをやりたいという人の心理はよくわからない(ずっとヒアリングはしているが、今ひとつ掴みきれない)が、選手を支えたいという気持ちがあるのは事実らしい。しかし、そこで「もっとこうした方が効率が上がる。」

全国に出ます

チームが全日本大会に出場できることになった。1年から数えて7シーズン目でようやくここまでたどり着いたという感じ。自分がわずかながらも力になり始めたのが2年の春(副務・委員長補佐的な)からなので、それから数えても丸2年かかったことになる。 この優勝は現在のチームの実力ももちろんだけど、運もかなり味方になった。早稲田のエースがおらず、法政・明治のエースは不調だった。立教のエースも乱調。今までこういう状況はなかっただけに、余計に「神風が吹いた」という印象を受けるが、このようなことが起こるのも、やはり実力に含まれるのだろう。偶然とは思わないが、運命だとは思う。 部員が増えたので、試合に出る・ベンチに入る選手の方が少ないし、マネージャーに関してもベンチ入りできるのは毎試合1人だけ。大所帯でいかにモチベーションを上げ、一つの目標に意識を集約させるかは永遠のテーマである。もちろん全員を順番にベンチ入りさせるなんてことはできない。そうすれば努力するインセンティブが失われ、競争がなくなってしまうからだ。問題なのは競争の結果生まれた敗者にどう対処するか。これは処遇の問題というより、意識改革の問題だと思う。 競争の結果負けるのは、可能性として当然起こりうる。このような競技スポーツにおいて、「負ける」ことを受け入れられないのなら、体育会のような組織に入るべきではない。本来体育会は、ベンチ入りが偉く、ベンチ外は人間以下という図式ではなく、一つの目標を様々な役割で達成していく、という図式で捉えるのが正しいと思う(そうでなくてはレギュラーしか部に残らないから)。だから部には多様な役割がなくてはならないし、それを認める土壌がなくてはならない。選手で活躍することを目指して入部してはいるが、実際それを達成できるのは一握り。社会でも一緒。だからこそ、組織で目標を達成し、高いパフォーマンスを発揮するためには、皆が同じ役割を目指してはいけないと思う。難しいことではあるけど、難しいからと言って避けては通れない。避けていたら、結局引退するときになって思うのだ。「僕は・わたしは結局この部で何を学んだのだろう?」 小熊英二先生曰く、明治政府の定めた学制とは「優秀な国民(兵隊)を養成するためのもの」だという。特に大学は「官僚・学者・科学者・教師・歴史編纂を行う人材を育成する場」であり、完全なる職業訓練所だったというこ

ホッケー

Googleで検索すると、慶應義塾体育会の他の部のページが沢山出てきます。過去のページなんかが保存されているのも多く、そういうのを眺めていると不思議な感じ。OG訪問(僕はO”B”訪問はあんまりしませんでしたw)させてもらった方の現役時代の写真なんかがあったりして、ああ若いなとか、この時の写真より僕年上だわとか、色々感じます。過去の写真が多いのは体育会ホッケー部かな。ああやって過去のチームに「TEAM2005」とか名前をつけて保存しておく試みは、なんというか、いい感じです。記憶を残すというか。 今はこうやって野球をやっている「自分」が、来年になれば社会人としてプログラミングをしているはずなわけで、そうなると「野球をしていた」という事実は自分の中にはなくなってしまう。固くなった手のマメとか、まだ落ちていない筋肉とか、そんなところにかすかな痕跡は残っているけど、実際問題として野球はやらないわけで。そうなると、野球をやっていたあの日々というのは、永遠に記憶の中… しかも記憶は余計なノイズをカットするわけで、楽しい想い出か強烈に辛い想い出しか残らず、日々の生々しい感情(退屈な感じとか、嫉妬とか苛立ちとかいうブラック系)は全部忘れてしまう。そうなると自分の頭にある記憶ってのは、本当に自分が経験したことなの?というくらい抽象的なものになってしまう。ある意味で洗練された、ある意味で取替え可能な記憶。 そういう記憶の欠落を補う力がウェブにはあるということを、女子ホッケー部のページを見てふと思いました。完全に攻殻機動隊の仕組みなんだけど、今更これを実感するとは。。集合写真っていつも笑っているとは限らないじゃないですか。たまに不機嫌だったり、いらだってたりする。そういうのを切り取って保存しておける。もちろんブログなんかもそういう機能はあるので、ブログもそうなんだけど、ホッケー部のページを見て思うのは、個人の記憶の集積なのではなく、部としての代の連なりだということ。それは個人のブログではできないことなので、面白いなあと。 なんかまとまらない。とりあえず、ホッケー部でOG訪問させてもらった児玉さんはとても素敵な方だったということです。ちょっと無愛想かなとも思ったけど、帰る時に腰痛の話で盛り上がった(?)ときなんかはとても笑顔が素敵でした。ああいう人が社会にはたくさんいるんだろうけど、個性が目

ザ・ゴール2を読んだ

メディアで借りていた『ザ・ゴール2 思考プロセス』を読み終わった。小説なので3日くらいで読了。前作も読んでいたので内容はなんとなく頭に残っていたが、こっちの方が「思考プロセス」ということで応用が利く感じ。様々なことに思考ツリーを当てはめていく(前作は工場という製造現場の話のみ)ので、こちらとしても理解しやすかった。 http://www.amazon.co.jp/ザ・ゴール-2-思考プロセス-エリヤフ-ゴールドラット/dp/4478420416 ゆとりでやっているのもまさしく「思考ツリー」。これを使って中高にまつわる問題点を解消しようという取り組みだ。ただ、中高生にはこの思考ツリーを教えていない上に、抽象的な思考自体にあまり慣れていない。問題点を見て、単純に答えを出そうとする。「バスの列が乱れるから、さくをつくろう」とか。でもバスの列がなぜ乱れるかという理由がわからなければ、本当に乱れがなおることはない。それに、そもそも「答え」があるという考えから脱却しなければならない。答えなんかない。自分でベターな策を講じるしかない。そのためにはスキのないロジックで武装する必要がある。思考ツリーはその助けになるだろうけど、あと2回で教えられるかな… 「答えのない問い」に取り組むことが難しいのは中高生に限ったことではないけど。大学生だって難しい。むしろ受験などで答えのある課題に取り組みすぎたことで、答えのない課題を前にすると何もできない人もいる。皆の意見を調整し、ロジックを戦わせ、最善と思われる策をブラッシュアップしていくというプロセスは骨が折れる。でも、全てを黙らせる「答え」というものが存在しない以上、これをやる以外に方法はない。部活でもそう。短絡的な発想に陥ることなく、本質的な問題を徹底的に突き詰める姿勢を崩してはならない。 入部してからこの姿勢は崩さなかったように思うけど、もっと味方を増やす力を身につけておけばよかったかな。孤独に強くなったのはいいことだけど、一人でできることには限界があるから。もとから孤独を恐れない性格のような気もするけど… とりあえず、自分の考えを理解してくれる後輩たちが増えたのは本当に嬉しい限り。もし下の学年にそういう仲間がいなかったら、僕もどうなっていたかわからない。 ↑安いしぜひ読むべき。1600円くらい。