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3月, 2010の投稿を表示しています

目標

明日からついにサラリーマンになれます。社会人には既になっているとも言えるし、まだなっていないとも言えるのでとりあえずサラリーマンです。でもしばらくは遊んでいるだけです。一度に大量の固定費を抱え込む会社が潰れないことを祈るばかりです。 なんだかんだと振り返ってみて、やはり自分はこれから勝っていきたいのだという気持ちを持っていると気づきました。今まで気持ちだけは持っていながら、土俵に上がることすら許されなかったという積年の感情があるのでしょう。今までの実績とか全てリセットして取り組めるんだから、やらない手はないということです。もちろん自分がマイナスからのスタートということはしっかり自覚しないといけない。でもできることでアピールするしかない。実力が劣っているからといって、引け目を感じて下がっていたのではどんどん置いていかれるんだから。 とりあえず、この1年間の目標は、「最も印象的な新人になる」にします。それは仕事の能力ではないです(それを目標にしても辛くなるだけな気がするので)。社内・部署、自分の身の回りの人から、あいつは面白い、楽しい、フレッシュだ、元気だ、と思ってもらうこと。評価者に受け入れられること。社内に迎え入れられること。それを目指します。それを新人で一番うまくやるのが目標です。 仕事の実力を発揮するのはまだ先ですが(自分の場合、もっと先になるかも)、これなら明日からでもできます。今すぐ実行します。そう見せかけ、そういうフリをするのが最初だとしてもね。

和解

昨年3月、関東学連学生幹事副委員長という役職をクビになりました。そのクビにした張本人と、今日和解会食をしてきました。当然仲介してくれた人がいます。その人がいなければこういうこともなかったでしょう。人生何が起こるかわかりません。 だからこそ、人に対しては良い印象を持たれるようにしておくんだと強く思いました。仲介してくれた人は事務局での付き合いですが、事務局にかかっていた音楽がドラゴンフォースだったことに気づいて指摘してから、向こうが非常に良くしてくれました。もともとそういう付き合いって苦手だったのですが、結局この和解で一番力になってくれたのはこの人だったのです。もちろんこういうことは予想できないから、初めから味方つくろうと思って行動すると見透かされる。だからできるのは一日いちにちの行動を変えることだけ。その日会う人に対し、良い印象を持ってもらうこと・良い感情になってもらうことを考えて行動すれば、そのうちいいこともあるさ、ということですね。 社会人になってもきちんと行動を律していきたいです。 またそのOBから色々訓示を頂きました。組織で生きる上では「他人と比べること」はご法度なのだそうです。隣のアホが出世するのは、クライアントの靴の底を舐めているからかもしれない。そういうことを自分ができないのなら、そいつと自分を比べても不幸になるだけだと。「男の嫉妬は見苦しい」のだそうです。たしかにそうだ。しかも僕は靴の底を舐めるような真似はたぶんできない。だいぶできるようにはなったけど、進んでやろうとは思わないからな。もちろん正論吐くばっかりの奴が使えないのは当然だけど。 また、上司によって態度を使い分けるのも見透かされるからダメのようです。あの上司は靴の底を舐めるフリをすれば受ける。あっちはダメ。そういうのはバレるのだと。なんとなくわかります。ただ人を観察し、何がウケるかを把握することを怠ってはダメでしょうね。 あとは「短気を起こすな」だって。まあこれはクビを言い渡した直後の僕の対応からきているのでしょうが。。胸にとめておかねばなるまい。顔に出る癖はまだ抜けていないからね。 いろいろ言われたけど、忘れてはならないのは「組織の怖さ」でしょう。理想に燃えるのもいいけど、組織の論理を忘れ、組織で生き抜く力をなくしてはいけない。ベンチャーとはいっても規模はでかい。そこを生き延びるにはえげつ

終わりのない生活

卒業式が終わり、大学や中高の仲間が少しずつ引越しを始めている。既に地方へ飛ぶことが決まっている人もいるし、関東ではあるけれど、合宿所や寮に入る人もいる。僕は今のところ実家から通えるので引っ越さないが、いつ転勤を言い渡されるかわからない。しかもそれは拒否できない(拒否はできるが、したら食っていけない)。まだ終わるわけにはいかない以上、しばらくは我慢の時期になるでしょう。 高校や大学を振り返ってみて、これからの生活との違いを見出そうとすると、明確な相違点が一つあります。いつ終わるかわからないことです。1年後にクビを言い渡されるかもしれないし、30年くらい勤められるかもしれない。しかしそれが今わかることはないし、予想することもできない。いつ終わるのかがわからないというのは、「自分が望まなくたって終わりは来る。だから思い切り勝負しよう。」というメンタルになりにくいですね。もちろん終わりは来るのですが、今まではその時期が明確に決まっていた。でも今度は違います。 大学1年から2年で感じていたような思いを、しばらくはまた感じ続けるのではないかと思います。明日も明後日も今日と同じような日なのではないかという憂鬱。永遠に今日がまわり続けているような感覚。何も変化しているように思えない。そんな気分になるのではないかと思います。しかも終わりは見えない。 「もし今日死ぬとしたら、今日やることは本当にやりたいことだろうか」「一日いちにちを最後の日だと思って生きよう」みたいに言われることがあります。言いたいことはわかるのですが、本当にそれを実行したら、律儀に会社なんて行くわけがない。しょせん「明日もあさってもあることが前提で」今日のやるべきことをしっかりこなしたかどうかを問うているに過ぎない。死=期日を意識するのはプロアスリートや成功した起業家に多い特質(夢に日時を入れることを好む傾向。抽象的な夢より具体的な目標を好む傾向)らしいですが、誰もがそういう特質を持っているわけではない。期日までに何事か成し遂げたい、成さねばならぬと思っている人の考え方をそのままマネするのは、参考になりこそすれ、幸せになるかどうかはわからないと思います。 終わりはあるが、いつかはわからない。そんな混沌とした時間を生きるためには、坊さんの力でも借りるのが一番ではないかと思います。仏教は世界でも珍しく都市で生まれた宗教で

雑記

あと数日で会社員という身分になるわけですが、当然ながら身分が変わったからといって、中身が変わるわけではないです。会社はこの経済状況もあり、急激な成長を望むのでしょうが、正直言ってどのくらいの時間で「使いものになる」レベルになるのやら… 世の中も変わっておりますので、求められるスキルや思考も合わせて変わるわけです。なので上の方々が求める使える人材には一生なれないかもしれない。どういう人材が「使える」のかすらわからない状況になると非常に大変だなとも思うのですが、そうなってくれた方が、若い奴が一気に上へ行けるという意味では、そうなった方がいいとも思います。まあ何にせよ、全力で頑張りはするが、自分の能力や成長速度に対して過剰な期待はしないようにします。運動生理学的にも、技能向上は3歩進んで2歩下がる的な曲線を描くことが実験で証明されていますし、時折休んでイメトレをしてたほうが向上度合いが高いことも知られています。だからいつか使える人間になることだけは疑わず、しかし日々の成長が実感できなかったとしても、失望せずゆきたいと思います。 3年後、社会は変わっているかもしれませんが、人間の欲望はきっと変わっていない。だから人間の欲望をしっかり理解できるような人間になっていたいと思います。そういう習慣をつけていたいと思います。流れの速いギョーカイについていくことが目的となり、いつしかギョーカイに染まり、「今はメガネっ子が流行っているから、メガネっ子を出しとこう」「ツンデレが流行っているから、ヒロインはツンデレにしとこう」みたいな思考しかできなくなっていたら、職業人として終わりだと思います。 今の現象をなぞるだけではなく、なぜそうなっているのかを見抜き、仮説を立てて世の中に発信し、問う。そういう風に私はなりたい。って誰の言葉だったっけ?

卒業間近

明日で大学生活も終わりです。長いようであっという間、特に最後の1年は早かった。結局部活を中心に全てがまわっていた気がします。色々と犠牲にすることの多い4年間でした。思うようにいかないことばかりの4年間でした。皆の写真を見ていて、羨ましいと思うことばかりです。自分も好きなことをやれていたけど、試合に出るチャンスすらなかったことを考えると、チャンスを必ず与えられて、それが当たり前の環境にいる人たちが本当に羨ましいと感じてしまいます。完全に嫉妬です。 他人はいつでも羨ましいもんですね。選手としての才能が足りないと思い知らされた自分にとって、そういう負い目を感じながら楽しく遊ぶなんてことはできませんでした。それができるほど大人ではなかったということです。そういう引け目を感じながら練習をし、しかし追いつけず、悶々とし、でも部をやめたところで自分が変わるわけではないという現実。だったら部で生き残るしかない。そのための場所を探し、必死でやってたら4年が過ぎていたという感じです。 やっぱり自分は不器用だし、クソ真面目な方に分類されると思うのです。試合には出れないけど、まあ遊びもしようよ、なんてことはできなかったのです。グラウンドじゃライバルの人間と、一緒に昼飯に行ったりオフは一緒に遊ぶなんてできないんです。そこまで割り切れなかった。でも今、ようやくそういうこともできそうな気がしています。それも4年間、必死でそういうことを避け続けてた結果ですかね。強情なやり方だったけど、意味があったと思います。 こんな自分でも、同士みたいに思える仲間も数人できたし。相手がどう思っているか、本当のところはもちろんわからないけど。それでも、自分がとってきた行動を良いと感じる人間もいるんだということがわかって、良かったと思います。これからはもう少し、柔軟にやりたいと思いますが。 まあこんな生活を送ってみて、確実に「良かった」といえることが一つあります。孤独に強くなったこと。 味方なんてずっといなかったからね。これからどんな状況になったとしても、潰れない自信がつきました。大学生活が恋しい、社会人になりたくないと言っている人よりは、確実にタフになったと思います。よかったのはそこかな。

専攻が言えない

大学時代の専攻は何でしたか?と聞かれたら、正直言って答えに困る。研究会には入っていたし(しかも一時は同時に2つも。同じ先生の研究会も渡り歩いた)、色々勉強はしたのだが、専攻と言われるとなんと答えていいものか。SFCの人はそういう人多いのかもしれない。だからといって、それが悪いとは思わないけど。 日吉三田の学生はその分専攻は答えやすいだろうけど、では勉強していたのかといえばそれは保証されないわけで。卒論なんかも話を聞く限り、コピペばっかりでレポートの域を出ない上、テーマは先生から与えられているらしい。そんなのありか。それで「大学の専門性」とか言っちゃうなんて笑ってしまうけど、今の大卒レベルなんてそんなもんだよね。社会人になってから学んでいくのだ。まあそうしない人の方が多いんだろうけど。だから世の中には知識レベルが高校止まりの人が溢れているんだね。これは本筋とは関係ない話だからいいけど。 認知科学を学ぼうと思ったのは、高校の卒業論文で攻殻機動隊をテーマに入れたから。脳とかそれに関するテクノロジーとか、ロボットとか、そういうのに興味があって、なおかつ体育会と両立できて、初心者からでも知識が積めて…という条件を満たすのが入った研究会だった。福田忠彦研究会というのもあり、高校時代にはそこに入ろうと思っていたけど、体育会との両立が不可能っぽかったのでやめた。実際は不可能じゃなかったっぽいけど、体育会だからといってお目こぼしを頂くのは嫌だったし、何より入っているだけという状態は嫌だった。やるからにはちゃんとやりたい。それが高い次元でできそうだったのは今の研究会だったということ。 ロボットのグループに入ったのだが、最初は週1で、輪読とかいう形式で、先生ではなく院生がしきるという授業に戸惑った。なんというか、本を読む量も少ないし、こんなんで知識つくのか?と思った。面談はあったけどいつも体育会の活動を聞かれるだけで指導とかなかったし。「こういうのやりたいんです」と言ったら「いいですねぇ」ってのがいつもの流れ。否定されないからいいんだけど、こういうのをまず読めとか、そういう指導がないのは正直困った。自分で本を読んでも、認知科学とか自然言語処理の世界が実は広大で、色々な論争があり、既に死んだ理論もあり、何から手をつけていいのかわからん!!という状態になってしまい、いつまでも足場が固まらない

労働観・人生観(1)

なぞにシリーズ化してみるかもしれません。予感はするのでとりあえず(1)にしときます。 最後の卒業旅行からも帰ってきて、あとは入社式で行われるという試験の勉強をするだけ。非常に面倒くさいが、一応その後役立ちそうだし、頑張ってみます。入社前に尻を叩いても生産性は上がらないと思うんだが…一部のやる気が異常な人々を除き、去りゆく大学生活がさらに恋しくなるだけだと思うんだけどね。まあ僕の場合は一応存分に満喫したと思うので、それなりに準備をしようとは思います。 入社する会社が若いということもあり、起業志向だったり、上昇志向が強かったりする同期が多いのだけど、彼らに負けないようにしなければという思いと同時に、そんなんで疲れないのかねぇという思いも持つ。何かを成し遂げたいという動機を達成する上で、仕事が最も有力な道具になりそうなのは否定しないけど、何かを成し遂げたとしても、それは人生のすべてではないはずなんだけどね。ちょっと想像してみればいいじゃない。一生懸命仕事にうちこみ、それこそ私生活も全て投げ打って没頭し、業績アップで年収も倍増、社会的地位も名誉も手に入れた。でも貴重な20代という若い時期、一番体が動き、一番精神も健全な時代を失ってしまったという悲劇。金も余暇も使える体があってこそだと思うんですがね。まあそれは自分だけではどうしようもない部分があるので、仕事に打ち込むのが全て間違いだなんてことは決して思いませんが。何があっても雇われ続けるためにそれなりの力をつけておく必要はあるでしょうし。OG訪問した三井物産の方も、将来に不安があるとかで大学院に進学してしまいました。社費かどうかは知りません。ペイするかも知りません。でも大企業に勤めていたとしても、そういう風に考える状況が来るということでしょう。まあその方は女性なので、男性よりもペイするとかしないとか考えなくてもいいのかもしれませんが。 もちろんお金は欲しいけど、寝る時間が1時間もない生活を続けなければならないのなら、そんな仕事はやりたくない。いつかこの1000万円を使ってやるぞ!!と思っていたとしても、たぶんそんないつかはこない。それだったら日常を充実させたいもの。まあそんな両極端な話じゃないと思いますが、引退してサアゆっくり余生を満喫するお(笑)って状況は僕らの世代にはありえないと思うので。若いうちから休んだり、遊んだりす

ブログを引用してみる:働くことについて

4月まで2週間程度になったところで、これから何年続くかわからない社会人生活に多少の慄きを感じてきたところ。2011年卒の就職活動も山場を向かえ、ツイッターでは「働くとは」関連の投稿が増えている様子。色んなところから引っ張られている中で、対極の投稿を二つ見つけたので置いておきたい。もうどちらも相当有名になって語りつくされている気もするが。 「飲みニケーション」とかの次元じゃない”若手”の仕事の楽しみ方 http://blog.livedoor.jp/ikiradio/archives/51416731.html 「仕事=人生」以外の価値観は認めないw。 http://kusoshigoto.blog121.fc2.com/blog-entry-341.html 前者はよく言えば「働くことを甘く見るな」、悪く言えば「社畜マンセー」。後者はよく言えば「今の日本的労働環境への真っ当な批判」、悪く言えば「鵜呑みにすると危険」。一長一短だと思うけど、後者が前者の批判という形になっているので(前者は後者からの批判に答えていない)、どちらかというと後者に分があるように読める気がする。ただどちらの言い分も最もだと思う。両方正解。少なくとも自分は両方正解だと思うし、両方を今後に活かしていきたいと感じた。 働いたことはないが、会社員としてキャリアをスタートするなら、まずは会社でうまく立ち回るのが仕事じゃないかと思う。自分の場合、会社に即貢献できるスキルがないわけだから、他のメンバーが「こいつといると面白い」と思ってくれるようにするのは大事なことではないかと思う。コミュニケーション能力の向上にもなるし、いずれその人たちが自分を守ってくれるかもしれない。そう上手くはいかないにしても。 ただしそれは純粋に自分のためであって、仕事が時間的に人生の大部分を占めるようになってくるのだから、そこで自分が不快にならないように、そして自分のやりやすいようにしていくためにどうするべきかという発想から来るもの。仕事は社会のためにあるのだから、会社や社会に貢献せよとか、世界を変えるために粉骨砕身しろとか上から言われるのは違和感がある。そういう会社に入ったとしても、人生の優先順位は人によって違うし、それが認められないのは不幸だと思う。給料をもらうのだから結果は出さなくてはならないけど、会社として掲げた目標(ミッシ