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感想:日本の一番長い日

「日本の一番長い日」を観ていて、ああ、戦前の意思決定ってこんな感じだったのだなと感慨に浸ったので、少しメモ書きしたいと思う。典型的なのは以下の場面か。 1. 映画序盤、ポツダム宣言受諾を拒否せよと青年将校たちに詰め寄られ、阿南陸相が「不服なものは私を斬れ!」と叫ぶシーン。 2. 天皇に読んでもらう原稿で「戦局好転せず」にするかどうかで阿南陸相と米内海相が対立し、誰も意見できない会議のシーン。 3. 近衛兵の反乱に気づいた東部軍連隊長に対し、反乱軍の一人が「これから近衛師団の指揮をとって頂きます。作戦内容は我々がよく存じております」と言い放つシーン。  阿南陸相は陸軍のトップなのだから、彼がポツダム宣言受諾に傾いた時点で、他の軍人が何か言えるなんてことはないはず。しかし実際は20歳そこそこの少佐に「最後まで戦え!」と詰め寄られる。そして阿南も命令によって屈服させることができず、「不服ならこの阿南を斬れ!」と人情に訴えて封じようとする。本当にこの人は陸軍のトップなのか?と思わされる。 会議のシーンでは、そもそもそんなことでいつまで会議しているんだとも思うけど、首相が決めればいいのでは?と思うのに何も言わない(少なくとも映画では)。天皇に決めてもらえばいいのでは?とも思うけど、そもそも天皇の御聖断で決まったポツダム宣言受諾が青年将校に受け入れられていない時点で、あまり意味をなさないことがわかる。放置状態。誰が一番偉いのか?という感じ。 今にも通じるのは3のシーン。連隊長をまさしく神輿として扱っている。偽命令書があってこその強気ではあるものの、それだけではなく、普段から特にこいつはこんなんだろうなあと思わせるシーン。そして、きっとこいつだけじゃないんだろうなと思わされる(だからあれだけの規模の反乱になったわけだし)。 戦前の日本って、東条英機がたくさん大臣を兼ねていることからも独裁政治だったというイメージがあるけど、実際は全然そんなんじゃなかったというのがわかる。もちろん庶民に対しては憲兵やら秘密警察やら、締め付けがあったけどももっと上のレイヤーでいえば、いったい誰がリーダーなのかという状態。 史実として、阿南と鈴木貫太郎はものすごく親しかったということがわかっているらしい。だからこそ全てが終わったときに阿南は鈴木に会議でのお詫びを述べて、南方か

週末観た映画

この週末はいろいろ映画を観ていました。せっかく楽しい映画を観ているのに、どうもまっすぐに映画を観ることができなくなっていていろいろ考えてしまう。社会人になって、ものをつくる仕事をしていて、映画を観ていてもそれを作った人たちに思いを馳せる用になっているからだと思います。この週末に観たのは以下順不同。  言の葉の庭 リリイ・シュシュのすべて ピンポン(3回目だった) 特攻大作戦 セックスと嘘とビデオテープ 日本の一番長い日 日本の一番長い日、特攻大作戦、セックスと嘘とビデオテープ、は面白かった。一度も早送りしなかった。ピンポンは3回観て3回とも早送りしてしまった。リリイも部分的に飛ばした。言の葉の庭は短いので飛ばさなかったけど、最後は吹き出してしまった。自分も似たような経験をしているから、もっと感情移入してもいいはずなんだけどね。 古いものから新しいものまで、実写からアニメまで、邦画から洋画まで、だいたい網羅してみたけど、映画って何だろうという風に思いながら観てました。45分しかないアニメと、2時間半もあるモノクロ映像が同じ映画として扱われているけど、同じカテゴリーに入るんだろうか。映画ってどうすれば映画になるんだろうか。映画館で上映されれば映画なんだろうか。答えは当然ながら持っていないけど、映画監督はその答えを探しているはず。今、なぜ映画というフォーマットで映像を作る必要があるのか。それは映画を仕事にしていない人にも突きつけられた問いでもあるはず。スティーブン・ソダーバーグはカンヌで賞をとったのに今は映画を撮れていない。アルドリッチはこつこつ秀作をとり続けられた、とかいうことは、普通の会社員にも当てはまるんだろうな。 日本の一番長い日は、もう迫力がすごい。戦闘シーンはほとんどないのに迫力がある。あれはなぜなんだろう。軍服の汗染みとか、天本英世の振り切った役柄とか、ディテールが納得させるということもあるんだろうけど。あの説得力はなんなんだろう。 しかしあれを観て、ああ、今の戦争アニメって、昔の戦争映画は一切観ていないんだなというのがよくわかった。ガンダムを参考にしているんだわ。おもちゃの戦争を模倣してる。軍服の汗染みとか、森師団長に発砲したあとの少佐の震えとか、そういうのが画面に出ていないんだ。ガンダムだと白兵戦もあったんだけどね。ランバ・

成長

スタートアップと呼ばれる段階の会社に入社したら実力がつくという考え、というか信仰に対して、懐疑的になってしまうシチュエーションに何回か遭遇しました。IT業界の若手には上記考えがはびこっているように思いますが、果たして本当にそうなのか? 大企業でも実力はつくでしょ?ということではなくて、仮にスタートアップでばりばり仕事をし、サービスも成功し、会社が大きくなったとしても、大きくなったその会社で自分は仕事ができるのか?という疑問が生まれたのです。会社の成長に個人の成長がついていかないという感じ。もしくは、会社の生態が変わってしまって、スタートアップ時代にいた人は環境の変化に対応できない、という感じ。まあ一生スタートアップ企業を渡り歩くというのであればいいのでしょうが。 「ソーシャルネットワーク」の映画をひもといてもわかるように、いざfacebookが一気に資金調達してでかくするぞ、という段階になると、当初CFO(映画では自称扱いだったけど)だったサヴェリンはクビになっているわけで。しかし彼をクビにするようにしむけた初代社長のパーカーもまた、らんちき騒ぎをやるようなやつだからこれからの会社にふさわしくないということでクビを切られる(映画では描かれていないけど)。 日本でもベンチャー、スタートアップというレベルから大企業にまでなると、やはり経営陣や中堅どころに中途で大企業出身者とか、きちんと訓練された人とかが入ってくる。そうじゃないと大企業になれないのだろうなあ。大企業になれないと、結局色々な人を組織にいれることができない。ルールなんてあってないような仕事のやり方をしていた人が上司にいたら、新しく入った人はやってられない。で、結局昔からの人しかいなくなってしまうと、その人たちが年をとったら時代に置いていかれて終わりだ。 人間も組織も、年齢にふさわしい振る舞いが求められる。大人げない、というのは、大人な対応ができてはじめて チャームポイントにもなる。それしかできないようではただ成長できなかった人だ。