学生野球に打ち込めるのも残り6ヶ月というところ。中学1年から始めた野球だったが、あと180日ほどで引退することになる。10年程度の野球人生が長かったのか短かったのか、自分ではわからない。だが、それほど楽なことばかりではなかったことは間違いないだろう。
大学に入る際、体育会に入らないという選択肢は一切考えなかった。硬式か準硬式に入ろうと決めていた。軟式が選択肢に入らなかったのは、高校の先輩がいたということと、軟式という競技の特殊性からだ(高校の先輩がいるとやりにくいだろうと思ったのと、軟式野球は打ってもあまり打った気がしないということで止めた)。2つに1つということで選んだのは準硬式野球。就職活動のときはなんだかんだと理由をつけていたが、入る際に考えたのはただ一つ。レギュラーになれそうということだった。それが大間違いだということはすぐにわかるのだが。
しかし、それでもなお準硬式野球部に入ってよかったと思う。監督もいない。コーチもいない。人数も少ない。しかも弱い。自分たちの力で強くするんだという希望があった。焦土となった後は再建するだけ、とでも言うような感じだ。自分たちの力で、このチームはいくらでも変わるだろうと思えたし、そのようなメンバーがいた。硬式野球部に入っていたら…と考えても仕方がないが、恐らく何も言えず、歯車のひとつとして機能していたのではないかと思う。なまじ自己犠牲の精神を発揮してしまうがために、本当に自分がしたいことを忘れ、奉仕に明け暮れていたのではないかと思う。それで引退した後に気づくのだ。「これが自分の望んだ野球人生だったのか?」と。100人以上もいるチーム。監督・コーチ体性は磐石。OB組織のバックアップも万全。甲子園出場の選手達もざら。そんな中、自分は何で貢献できるか?
このような環境に放り込まれても、僕は自分の頭を十分に活かせるポジションに付いただろうと思う。硬式に進んでいたら、むしろ早々に主務やマネージャーを目指したかもしれない。しかし、それで満足したかはわからない。「自分の力でことを成し遂げたい」という欲が満たされたかどうかは定かではないし、そもそも自分にそのような欲が存在することに気づいたかどうか。チームに貢献することは美しいし尊いが、それが自分の本心でなければならないということを今になって気づいた。自己犠牲の果ての貢献など、結局誰も幸せにしないのだ。
押井守は「自分の撮りたい映画を撮れること」「やりたい放題やれること」が、一つの理想だと述べていたように思う。「自分のやりたいこと」が不明確だったときは、ただただ組織にとって価値ある存在になるよう邁進することでよしとしていた。そこに主体性は存在しない。組織に依存しているだけだ。だから引退を恐れていたのかもしれない。いや、多くの体育会人が引退を恐れるのは、きっとそれが理由なのだ。組織に依存することで、自分の心底の思いを見つめることから逃げていたのだ。だからもたれかかる大木がなくなることを恐れる。それがなくなると、次は会社という大木に早く寄りかかれるように邁進する。そんな生き方からは決別してやろう。心の声に正直になろう。人生はやり直せないのだから。無難な人生など送らなくても、自分はもう十分に満足ではないか?
現在は母として生きる友人がいる。大学時代は無為に過ごしたと言った。就職氷河期にあたり、うまく就職できなかったと言った。本当は小学校の教師になりたかったと言った。そして現在は子どもを産み、母となって生きている。彼女は幸せだと思う。でも、僕はやりたいことがあったのに、それにチャレンジすらできなかったと後悔したくない。
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