瀬谷ルミ子さんの講演会に行くため、登戸・府中本町経由で国分寺まで遠征してきた。東京に国分寺市という市があることを改めて実感。なんだかこういう地方都市は全部仙台みたいに見える症候群になりかけている。
東京経済大学の写真は撮らなかったけど、住宅街にあるということで、一見駒場の東大みたいな感じ。しかしいる学生がなんだか幼いというか、勉学を生業とする人間には見えない。それはC301教室に着き、講演が始まるにあたってゼミの学生が挨拶する際にも感じた。なんであんなに噛んじゃうんだと。あんなに簡単な台詞なのに。そもそも伝達動機が低いのかもしれないし、そういう経験を全くつんでいないのかもしれない。経験はつんでいるのだが、根本的に学習能力がないのかもしれない。偏差値はそういう能力を測る指数ではないのだが、小熊英二先生も言うとおり、結局明治以降の日本では偏差値の高い学校に通っている学生は勉強以外に教養も高いということか(ただSFC(中高大すべて)を見ていると、そうでもないという例はあるのだが…)
肝心の講演会はというと、やはり生で瀬谷さんを見るということで、内に秘めたエネルギーというものを感じられた。あと、印象に残る言葉がいくつか(内容自体はプロフェッショナルで見たことと重複しているので割愛)。瀬谷さんは生で見ても、決してオーラがあるという感じではない。普通の女性という感じなのだが、そんな方がDDRというとんでもないことをやっておられる。そんなギャップを感じさせるくらいの人なのだが、話の端々に、「さもありなん」と思わせることがいくつも。「正義と平和は同時に手に入らないこともある」「市民団体は政府を敵と見なして対立することが多いが、政府の言い分を聞き、彼らが何を求めているか知ることで、連携して大きなことを為すことができる」「日本は連携が苦手」などなど。
「正義」を通すと「平和」が逃げていく。「平和」のために「正義」を封じなければならないこともある。ミロシェビッチ時代の旧ユーゴ空爆の時なんかは、まさにこういう状態だろう。セルビア人、アルバニア人、クロアチア人それぞれの正義を通せば、平和が訪れることはない。「正義」が「平和」に結びつかないというもどかしさ。こういうことを仕事にするというのは、どれだけストレスのかかることだろうか。
しかしそれも瀬谷さんが言うとおり「一番不条理を感じているのは現地の人」なのである。DDRを行う人はそれをサポートする立場であり、憤る立場ではない。こういう葛藤を乗り越えてきたからこそ、あんなに淡々と語ることができるのだ。瀬谷さん自身もどれだけ理不尽で、不条理な仕打ちを受けてきたかわからない。それでも今はああして自分の仕事に邁進することができる。本当にすごいと思う。
最後に客席からの質問で、「平和構築をするに当たり、個人として一番大事なことは何ですか」ということに対し、瀬谷さんは「自分に何ができるか知ること」と答えた。コミュニケーション能力や語学、学位なんかは手段に過ぎないという(偉大な人は皆言う)。それよりも重要なのは、自分が取り組みたいと思った平和構築の仕事を前にして、一体何ができるだろうか、何で自分は貢献できるかを知り、取り組むことだというのだ。瀬谷さんの場合、それがDDRだった。曰く「医療なんかは人気なのでなり手が多い。自分がなっても100人が101人になるだけ。でもDDRは0人だった。ここなら自分が第一人者になれると思って取り組んだ。」とのこと。「スキマ産業を狙ったということです」と笑いながら付け足していた。
「祖国があなたに何をしてくれるかを尋ねてはなりません、あなたが祖国のために何をできるか考えて欲しい」
「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」
瀬谷さんの言葉から、過去の名言を思い出した。自分もこのような人になりたい。OBのタヌキジジイなんかにかまっている暇はない。
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