一度あることを考え出すと、しばらく止まらなくなるのが僕の癖です。下手をすると一週間くらい考えがとまらないこともありますが、最近はせいぜい3日くらいになりました。それに伴ってマイナス思考も短期間で終わるようになりました。まあそれはいいとして、先日ブログに藤田研のことを書いてからずっとそのことが頭から離れません。
ドキュメンタリー=シネマ というのが藤田先生の考える図式でした。映画であること。映画として美しくあること。ドラマがあること。単なる映像でも、記録でもない、シネマこそドキュメンタリーなのだという藤田先生の考えは、落第生である僕にもしっかり残っています。その意味では優秀な学生かもしれない。嘘です。
部活という、映画とはかけ離れた場所で日々過ごしている僕の生活をドキュメンタリー視点で見てみると、実に面白くない対象であることがわかります。残念ながら、体育会なんてものはしょせん大学生の道楽に過ぎない。特に自らが競技する立場の場合、どんな理由があったとしてもシネマにはなりえない。なぜなら、好きでやっているだけだからです。誰からも強制されていない。しかも僕達は大学生であり、自分で自分のことを考えられる年齢です。そんな人間が自らの決断で始めた体育会をドキュメンタリーにしようとしても、記録にこそなれ、シネマにはなりえないでしょう。
藤田研の卒業制作には、明大明治中の応援団に入った中学男子生徒数名を追ったドキュメンタリーや、山梨県の山間部にあるサーカス団で夢を追う若者のドキュメンタリー、藤沢市にある老人野球チームに密着したドキュメンタリーなんかがあるそうです。サーカス団は見てませんが、残りは断片的に見せてもらいました。上手くコトバにできませんが、たしかに違うのです。僕らが置かれている立場がいかに恵まれていて、言い訳のできないくらいに羨ましい環境であるということを見せ付けられている気がするのです。僕らの環境は、決して卒業制作の対象になりえないな、と感じてしまうのです。
それでも、僕は体育会にいます。やはり好きなのだと思います。「こうしたい」という想いを持ち、実現させていくことが。「対象に入れ込むな」というのは藤田先生が仰った注意点ですが、そういう意味では僕は完全に対象に入れ込んでいます。だから準硬式ではドキュメンタリーが撮れないのかもしれない。でも、ドキュメンタリー視点で見てみると、やはりまだまだこの部にはやるべきことがたくさんあるのだと気づかされます。
「なぜこれを観なくてはならないのか?」「なぜ今なのか?」「どこが面白いのか?」「何に感動するのか?」こういう質問に全て答えられるほど、僕は準硬式野球部のことを真剣に考えていないかもしれません。他者目線で俯瞰することにより、壁に向き合った自分が次に何をすべきか、新たな啓示を得られるような気がしています。
まだまだ卒業制作として提出できる出来ではありません。上の質問に成果で答えられる日が来るよう、今後も精進していきたいです。
コメント
コメントを投稿