大学時代の専攻は何でしたか?と聞かれたら、正直言って答えに困る。研究会には入っていたし(しかも一時は同時に2つも。同じ先生の研究会も渡り歩いた)、色々勉強はしたのだが、専攻と言われるとなんと答えていいものか。SFCの人はそういう人多いのかもしれない。だからといって、それが悪いとは思わないけど。
日吉三田の学生はその分専攻は答えやすいだろうけど、では勉強していたのかといえばそれは保証されないわけで。卒論なんかも話を聞く限り、コピペばっかりでレポートの域を出ない上、テーマは先生から与えられているらしい。そんなのありか。それで「大学の専門性」とか言っちゃうなんて笑ってしまうけど、今の大卒レベルなんてそんなもんだよね。社会人になってから学んでいくのだ。まあそうしない人の方が多いんだろうけど。だから世の中には知識レベルが高校止まりの人が溢れているんだね。これは本筋とは関係ない話だからいいけど。
認知科学を学ぼうと思ったのは、高校の卒業論文で攻殻機動隊をテーマに入れたから。脳とかそれに関するテクノロジーとか、ロボットとか、そういうのに興味があって、なおかつ体育会と両立できて、初心者からでも知識が積めて…という条件を満たすのが入った研究会だった。福田忠彦研究会というのもあり、高校時代にはそこに入ろうと思っていたけど、体育会との両立が不可能っぽかったのでやめた。実際は不可能じゃなかったっぽいけど、体育会だからといってお目こぼしを頂くのは嫌だったし、何より入っているだけという状態は嫌だった。やるからにはちゃんとやりたい。それが高い次元でできそうだったのは今の研究会だったということ。
ロボットのグループに入ったのだが、最初は週1で、輪読とかいう形式で、先生ではなく院生がしきるという授業に戸惑った。なんというか、本を読む量も少ないし、こんなんで知識つくのか?と思った。面談はあったけどいつも体育会の活動を聞かれるだけで指導とかなかったし。「こういうのやりたいんです」と言ったら「いいですねぇ」ってのがいつもの流れ。否定されないからいいんだけど、こういうのをまず読めとか、そういう指導がないのは正直困った。自分で本を読んでも、認知科学とか自然言語処理の世界が実は広大で、色々な論争があり、既に死んだ理論もあり、何から手をつけていいのかわからん!!という状態になってしまい、いつまでも足場が固まらない感覚を味わった。そんな中で自分のやりたい研究を確率し、実験をしたり調査を繰り返したりしている同期(女の子)を見ると、すごいなぁと思うと同時に、何でその研究にそこまで打ち込めるのか?と疑問に思った。でも今振り返ると、自分にもちゃんと打ち込めるものはあって、それは野球だったんだねと。だから研究に打ち込めなくてもしょうがなかったんだねということでしょう。
自分は割と色々なものに興味を持つ方だと思うけど、大学の4年間・特に後半2年間は野球部の活動に没頭していたなぁと思うわけです。だから専攻が何たらとか考えられないほど、野球を中心に回っていた。野球を中心に、といってもプレーじゃなくて、勝つためのチーム運営とか、やる気を引き出す会話術とか、そんなことばっかり考えていて、そういう関連本を読んでいた。学習内容としては、現場レベルの経営学みたいなものというか、組織人事とかそういう系が多かった。研究会に入っていたわけじゃないけど、専攻が認知科学・自然言語処理と経営学とどちらか?と聞かれれば、正直勉強量的には後者なんですよね。もちろん前者だって勉強していたし、授業はだいたいとって成績はよかったんだけど、それに没頭できたか?といえばそうではなかったということ。
同じ研究会で一生懸命研究していた女の子は、その研究内容が好きなんだろうし、没頭していたんだろうと思う。自分にとっての野球みたいなもの。だから彼女はそれが専攻になった。僕はならなかったけど、没頭できるものはあった。でも大学生の中には、没頭できるものすらないって人の方が圧倒的なんだよね。多分。
大学って、そういうものを見つける場所であればいいんではないかと思う。それが遊びとかバイトじゃ大学にいる意味はないけど、主とする活動を見つけて、そこから根を張って色々なことを学んでいくのが一番効率のよい学び方だろうと思う。先生なんかは大学時代(というか全ての学生時代)に勉強しかしてないだろうから、それ以外を認められないんだろうけど、大事なのは学ぶことであって、教室で授業を受けることとか、ゼミに入ることが大事なわけではないはず。習熟度とか達成度が一定レベルに達していれば、どういう手段でそこまで行き着いたかはどうでもいいじゃんと思うんだけどね。社会人はコミュニケーション能力が大事とか言われているけど、そういう講義は大学にない割に、慶應は皆それなりになっているのは、大学の授業以外で身につけているからだし。
だらだら長く書いてしまったけど、このエントリーを書いた動機ははっきりしている。卒論を書いた人に対する若干のコンプレックスです。
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