頭上の敵機を今日DVDで観たのですが、観終わった後、いろいろな思いが自分の中に渦巻いたわけです。日経ビジネスオンラインで押井守が言ってたみたいに中間管理職の話としてだけでなく。
まったく関係ないはずですが、交通ルールを守ることと事故に合うことについて、みたいなことがふと頭をよぎりました。うまく整理できていないので以下は頭上の敵機とはあまり関係がありませんが、たまに思い出すことなので書き残しておきます。
世界中のどこでも道路には信号があって、歩行者も自動車も信号を守るように教育されています。赤はわたってはいけない。青で進め。
なぜそれを守るかといえば、ルールを決めておけば円滑な交通が実現でき、事故も防げるわけです。でもそれはみながルールを守るという前提なわけで。
残念ながら交通事故というのは、歩行者しかり自動車しかり、意図的かどうかはともかく、ルールが破られたときに起こるものです。自分が歩行者だったとして、青で横断歩道をわたったとしても、無視してつっこんできた車が来たら死ぬわけです。逆に車でも、青で走っているのに突然歩行者が横断してきたらひき殺してしまうわけです。そうすると、なんのためにルールがあるのか?ってことになってしまう。ルールがルールとして存在するのに、それを無視するやつは必ずいるわけで、でもそういうやつらのために死んだり、殺しちゃったりする人が生まれる。
悲劇を防ぐためにペナルティがあるわけですが、そういうペナルティがあると知って注意するような人はペナルティがなくても注意する人です。そうじゃない人は死刑がペナルティでもやっぱりルールを破る。で、そういう人が車を運転していて誰かが死んでしまったら、その人はもう帰ってこないわけですよ。車を運転したやつを死刑にしても引き換えに帰ってくるわけじゃない。もちろんそういう人は二度と車を運転すんなとは思いますが。
どうせあってもなくても同じなら、信号なんてなくてもいいじゃないかと思います。実際北京とかNYなんかだと赤信号でも歩行者はいけると思えばいくし、車もぐいぐいつっこんできます。お互いに警戒しつつ進むってことをやってるわけです。 はっきりいって、それが本来のあり方だと思うんですよね。車にぶつかれば死ぬわけだから、道路を渡るのはもっとギリギリの行為になってもいいはず。でも日本ではそうなってない。なんでなのか?
日本において信号は貨幣みたいなもんだなと思います。みんなが信じているからこそ効果がある。高校野球におけるバントみたいなもんだとも言えるかもしれない。みんながその効果を疑ったら暴落するバブルみたいなもの。そういう運用の仕方をされているように見えます。実際赤信号で止まっている人たちは、信号しか見てない。赤で止まる、青で進む。車が来ているかどうかなんて一切気にしてない。青になったからって左右から車が来てないことにはならないと思うんだけど、みんな前しか見てないからね。どんだけ車を信用してんだよと思ってしまうが。
信号への妄信はお上絶対主義のあらわれとも言えそう。 信号を守っているうちは自分に責任はない、というね。青信号でわたって車につっこまれて死んでも、自分の責任ではないってあの世で言ってるのかもしれない。
自分の命を守ることくらい自分の責任でやりたいですが。俺はルールを守ったのにといって死ぬのはばからしい。何のためのルールか?ルールは無法者には通用しない。ルールがあっても守らない。言っても聞かない。で、そういう人は残念ながら一定数存在する。世の中ルールを守る人しかいないなら、そもそもルールなんていらないんですけど、そうじゃないからルールがあるはずなのに、そういうやつには効果がない。いったい何のためにルールってあるんだろうかと思うことがあります。こと信号に関しては。
まあどうやら、今はきちんとルールを守っている大多数の善良な人々も、実際は好戦的な戦闘民族の血を引いているんじゃないかというのが最近の民俗学・考古学の成果みたいなので、やっぱりルールは必要じゃないかとも思うんですけどね。ルール無用のロボコップみたいな世界にしちゃって、善良な人々も覚醒しちゃって北斗の拳みたいになっても困りますからね。眠れる獅子は一生眠ってろってところでしょうか。まあそれはいいとして。
ルールを守ることに価値がある、みたいに洗脳されてないか?と自分の生活を疑ってみることは大事だなと信号機を見て思いました。だから私は車が来てなければ赤でも渡ります。
まったく関係ないはずですが、交通ルールを守ることと事故に合うことについて、みたいなことがふと頭をよぎりました。うまく整理できていないので以下は頭上の敵機とはあまり関係がありませんが、たまに思い出すことなので書き残しておきます。
世界中のどこでも道路には信号があって、歩行者も自動車も信号を守るように教育されています。赤はわたってはいけない。青で進め。
なぜそれを守るかといえば、ルールを決めておけば円滑な交通が実現でき、事故も防げるわけです。でもそれはみながルールを守るという前提なわけで。
残念ながら交通事故というのは、歩行者しかり自動車しかり、意図的かどうかはともかく、ルールが破られたときに起こるものです。自分が歩行者だったとして、青で横断歩道をわたったとしても、無視してつっこんできた車が来たら死ぬわけです。逆に車でも、青で走っているのに突然歩行者が横断してきたらひき殺してしまうわけです。そうすると、なんのためにルールがあるのか?ってことになってしまう。ルールがルールとして存在するのに、それを無視するやつは必ずいるわけで、でもそういうやつらのために死んだり、殺しちゃったりする人が生まれる。
悲劇を防ぐためにペナルティがあるわけですが、そういうペナルティがあると知って注意するような人はペナルティがなくても注意する人です。そうじゃない人は死刑がペナルティでもやっぱりルールを破る。で、そういう人が車を運転していて誰かが死んでしまったら、その人はもう帰ってこないわけですよ。車を運転したやつを死刑にしても引き換えに帰ってくるわけじゃない。もちろんそういう人は二度と車を運転すんなとは思いますが。
どうせあってもなくても同じなら、信号なんてなくてもいいじゃないかと思います。実際北京とかNYなんかだと赤信号でも歩行者はいけると思えばいくし、車もぐいぐいつっこんできます。お互いに警戒しつつ進むってことをやってるわけです。 はっきりいって、それが本来のあり方だと思うんですよね。車にぶつかれば死ぬわけだから、道路を渡るのはもっとギリギリの行為になってもいいはず。でも日本ではそうなってない。なんでなのか?
日本において信号は貨幣みたいなもんだなと思います。みんなが信じているからこそ効果がある。高校野球におけるバントみたいなもんだとも言えるかもしれない。みんながその効果を疑ったら暴落するバブルみたいなもの。そういう運用の仕方をされているように見えます。実際赤信号で止まっている人たちは、信号しか見てない。赤で止まる、青で進む。車が来ているかどうかなんて一切気にしてない。青になったからって左右から車が来てないことにはならないと思うんだけど、みんな前しか見てないからね。どんだけ車を信用してんだよと思ってしまうが。
信号への妄信はお上絶対主義のあらわれとも言えそう。 信号を守っているうちは自分に責任はない、というね。青信号でわたって車につっこまれて死んでも、自分の責任ではないってあの世で言ってるのかもしれない。
自分の命を守ることくらい自分の責任でやりたいですが。俺はルールを守ったのにといって死ぬのはばからしい。何のためのルールか?ルールは無法者には通用しない。ルールがあっても守らない。言っても聞かない。で、そういう人は残念ながら一定数存在する。世の中ルールを守る人しかいないなら、そもそもルールなんていらないんですけど、そうじゃないからルールがあるはずなのに、そういうやつには効果がない。いったい何のためにルールってあるんだろうかと思うことがあります。こと信号に関しては。
まあどうやら、今はきちんとルールを守っている大多数の善良な人々も、実際は好戦的な戦闘民族の血を引いているんじゃないかというのが最近の民俗学・考古学の成果みたいなので、やっぱりルールは必要じゃないかとも思うんですけどね。ルール無用のロボコップみたいな世界にしちゃって、善良な人々も覚醒しちゃって北斗の拳みたいになっても困りますからね。眠れる獅子は一生眠ってろってところでしょうか。まあそれはいいとして。
ルールを守ることに価値がある、みたいに洗脳されてないか?と自分の生活を疑ってみることは大事だなと信号機を見て思いました。だから私は車が来てなければ赤でも渡ります。
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